【自遊掌劇場】天使の誘惑、悪魔の分け前

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「天使の誘惑、悪魔の分け前」2016.03.15

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確かに、彼は山下と名乗っていた。
私は彼のことを山下さんと呼んでいたが、山下さんが私のことをなんて呼んでいたかは覚えていない。
山下さんとは行きつけの店でよく顔を合わせた。私にとって数少ないその行きつけの店は、スコッチウイスキーの品揃えにも定評がありムードのよい音楽を流すショットバーで、ベッドタウンにある隠れ家的な店だった。
私は火曜日にしかその店を訪れなかったが、立ち寄れば必ず山下さんの姿を確認することができた。山下さんは、カウンターの端の席に革のカバンを置いて、その一つ手前に座っていることが多かった。年齢は恐らく私より一回り上で50歳を越えているかどうかといったところではないかと思う。身だしなみには気を使っている印象があって、ファッションに疎い私でも知っている有名ブランドのスーツや仕立ての良いシャツを着ていた。
まれに私が先に来店することもあったが、山下さんが先に店にいることのほうがほぼほぼ多かった。一人飲み客同士、いつも顔を合わせていればちょっとした挨拶や冗談を交わし、世間話をしていくうちに馴染みになっていくものだ。山下さんは、自身の家族構成についても喋ってくれたし、国内に無数に存在する秘湯の話にも精通していたし、毎年奥さんと行っているという海外旅行の話もしてくれた。私も、火曜日は妻がママさんバレーの練習があるから寄り道して帰れるのだといったようなことを話した記憶がある。
博識な人だった。決して知識をひけらかすようなことはしなかったが、ちょっとしたうんちくやエピソードなどをそれとなしに挟み込むのが上手だった。出過ぎすることはなく、引くところはそっと引く。話し相手に相槌を返すようにして語る物腰の柔らかい人だった。今さらながらに思うのだが、私はバーにウイスキーを飲むためというより、山下さんと話がしたくて店に足を運んでいたのかも知れない。
憧れていたといえば大げさだが、上司や先輩に恵まれてこなかった私にとって、山下さんは理想の上司像だったといえる。すべてを包み込んでくれるような器の大きさを感じていた。職場では上司や先輩とぶつかり合うことの多い私だったが、山下さんを相手にすると不思議と素直に話を聞くことができたし、意見が合わずにぶつかり合うこともなかった。時事ネタだろうが軽い世間話だろうが、山下さんの皮肉めいたコメントに反論しようと思ったことはこれまで一度もなかった。
そこでは、私も山下さんも仕事の話は滅多に口にすることはなかった。ロックグラスに氷がぶつかる音を聞きながら、他愛もない話をするのは本当に至福の時間だった。
ただ、一度だけお互いに仕事の話をしたことがある。そのときは、私がついつい職場の愚痴をこぼしてしまったのだ。どこの世界にでもあることだが、上司に手柄を横取りされたのが悔しくて悔しくて思わず酒の席に話を持ち込んだ。しかし、山下さんは嫌な顔ひとつせず話を聞いてくれた。むしろ、山下さんは聞き上手だった。こちらの言いたいことをすべて引き出しておいて意見やアドバイスを短く挟む。そのさりげなさと引き合いに出すネタのチョイスは秀逸だった。
「それは頭にきますね。私にも似た経験がありましたので、気持ちは痛いほどわかりますよ」
山下さんはバルブレアをロックで嗜んでいた。バルブレアはハイランドのシングルモルトだ。
「もっと評価されるべきですよね。適正な評価がなされていない。ところで、ウイスキー樽に天使が住んでいる話はご存知ですか?」
私が曖昧な表情を浮かべると、山下さんはゆっくりと語りだした。
「ウイスキーを造るとき、10年近い歳月をかけて樽の中に貯蔵するんです。樽に貯蔵されることによって、樽の成分と、樽を通じて触れる外気の影響を受け、芳醇で豊かな香味が身に着くんですね。ただ、熟成期間中その樽の中で年間2%から4%ずつ内容量が減っていくっていうんです」
この話はどこかで聞いたことがあったが私は黙ってうなずいた。
「減った分は、樽の中に住んでいる天使たちが飲んでいるというんですね。ロマンのある話です。まあ、結論から言えば樽の中でウイスキーが蒸発しているだけなんですがね。樽の中でウイスキーが蒸発していくことを”天使の分け前””エンジェルズ・シェア”と呼んでいるんです。美味しいお酒を得るための対価としての”天使の分け前”ということですね」
天使の分け前について熱心に語っているときの山下さんの表情が忘れられない。
そしてこうも言った。
「私たちは会社という樽の中で、美味しいウイスキーという利益を生み出す天使なのかも知れませんね。なんて、そんなことを言ったらおこがましいのかも知れませんが。身を粉にして会社のために尽くしているんですから、私たちにも”天使の分け前”があったっていいんじゃないかと思うときはありますよ」
最後のほうは山下さんの願望だったのかも知れない。
仕事の話はそれ以来ほとんどしたことがなく、私は山下さんがどんな仕事をしているのかは知らなかったし、私もどんな仕事をしているのか山下さんには教えていなかったはずだ。
私は毎週火曜日を楽しみにしていた。もちろん、山下さんと話ができるからだ。
しかし、ある時を境に山下さんをまったく見かけなくなった。体調でも悪いのかと心配したし、バーのマスターに尋ねてもプライベートのことはわかりかねると返された。
 

山下さんを見かけなくなり何週か過ぎた頃、テレビのニュースでその顔を見ることとなった。上場企業の経理部長が2億円着服の疑いで逮捕されたというニュースだった。私は思わず目を疑ったが、まぎれもなくそこに映っているのは山下さんだった。
私は咄嗟に山下さんが熱心に語ってくれた”天使の分け前”の話を思い出した。
山下さんに、今なら、一つだけ反論できる。
山下さん、それを天使の分け前と呼んじゃダメですよ。
 
 
 

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