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【006】楽園のカンヴァス 原田マハ
【006】楽園のカンヴァス 原田マハ
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もっと早く出会っていればよかったな、と思わせられるような本。原田マハの作品は、読後の影響力が強い。何かをしたくなる。この本を読み終わって真っ先に、NYの美術館に行きたい、とか、画集でも買おうかな、という欲求に支配された。人を突き動かす力のある、数少ない作家のひとりだと思う。
この作品のあらすじはこうだ。ニューヨーク近代美術館のキュレーター、ティム・ブラウンはある日スイスの大邸宅に招かれる。そこで見たのは巨匠ルソーの名作「夢」に酷似した絵。持ち主は正しく真贋判定した者にこの絵を譲ると告げ、手がかりとなる謎の古書を読ませる。リミットは7日間。ライバルは日本人研究者・早川織絵。ルソーとピカソ、二人の天才がカンヴァスに篭めた想いとは―。
史実にフィクションを織り交ぜた作品で、なぜか五木寛之の「メルセデスの伝説」や「ヤヌスの首」あたりを思い出した。好みの作品たちだ。
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「本当なのか嘘なのか」といった史実の裏側を操るようなフィクションを織り交ぜつつ展開していくのだが、そのストーリー展開自体だけでも充分に読み応えがある。誰も死なないミステリーとしての技巧が光る。もうひとつの側面としては、美しすぎるほどの純愛、が描かれており、すべてかみ合った瞬間思わずその素晴らしさに打ちひしがれるだろう。
美術や絵画に興味がなくとも、充分に楽しめる作品です。ネットで検索しながら文中の絵を眺められる現代ならではの楽しみ方もあります。手放しでお薦めできる作品です。
2017.11.08
抜け落ちた図書室の記憶
書店といって思い出すのは、ショッピングセンターにあるような大型書店でもなければ、郊外にあるような中型書店でもなく、生まれ育った街にあった小さな小さな「しらかば書店」のことを思い浮かべる。コンビニ半分ほどのサイズの本当に小さい店だった。
自宅から歩いて五分でたどり着けるその店に、中学時代は暇さえあれば通っていたように思う。店の三分の一は漫画コーナーで、もう三分の一は小説で、残りの三分の一で雑誌や文房具という売り場の構成となっていた。当時から立ち読み厳禁で、長居すると店主のおばさんが「はたき」を持ってきておもむろに店内の掃除をはじめるのだ。要は買わないのならばさっさと出て行きなさい、という合図だ。
「しらかば書店」ではほとんどの客が雑誌の立ち読み、あるいは漫画の立ち読みをして、買わずに帰っていったような記憶がある。ヒビキ少年は五百円玉を握り締めて、書店の売上げには貢献していた。音楽雑誌を買ったし、新潮文庫の小説なんかを買っていたし、漫画も「しらかば書店」で予約して買っていた。
だが、店でちょっと立ち読みしようにも、中学二年生ぐらいになると、通称「しらかばのおばちゃん」から向けられる視線が、これまでのものと違ってきた。当時通っていた学校では、クラス二つ分ぐらいの生徒が一挙に補導されるぐらい、万引きがブームになっていた。恐らく誰かが捕まり芋づる式に二クラス分が補導されるに至ったのだと記憶している。ヒビキ少年は、万引きなどには一切かかわっていない。かかわるわけがない。
学校がそんな状況であることは当然「しらかばのおばちゃん」の耳にも入っていたのだと思う。気のせいか視線が痛い。万引きを警戒されているのがありありと伝わるのだ。被害妄想ともいえる。そうだきっと被害妄想だったとは思うし思いたい。しかし、店の角の奥にあるミラーを見やると、「しらかばのおばちゃん」とばっちり目があうのだ。当然、ショックだった。これまでもかなり売上に貢献しているつもりだったし、立ち読みはなるべくしないし、本を買わなくても店外のアイスを買って帰ってたいい客なのに。でも、おばちゃんにとっては、中学生はイコール万引きという目で見なければいけなかったのも、致し方ないことだったとは思う。。。
中学の頃は「バンドやろうぜ」や「ヤングギター」や、新潮文庫あたりの世界の名作や日本の名作なんかを買ってた。「しらかば書店」のしらかばが武者小路実篤の属していた白樺派からきているのではないかぐらいの知識は当時の自分にもあった。
このように、中学時代に通った書店は、事細かに覚えている。
逆に、まったく覚えていないのが中学校の図書室だ。これに関してはまったく記憶になくて、ひょっとしたら学校に図書室はなかったのではないかとさえ思えるのだ。小学校の時は、蔵書の貸し出しカードに全部自分の名前を書いてやろうと思っていたぐらいだった。(当時の貸し出しはバーコードではなく、氏名を貸し出しカードに記入するのだ)
高校の時の図書室も記憶にあるし、なんなら授業をサボって図書室にいても注意されなかったので(堕ちていくものにはご自由にどうぞな校風)、一日に一回は図書室にいた。木漏れ日の中、図書室でするうたた寝が気持ちよかったものだ。
図書室とは密接なかかわりがあるはずの、この私の記憶に中学校の図書室の記憶がないというのはこれはもはや事件に違いない。記憶どころか、学校の教室配置を思い出しても、何階にそれがあったかさえわからない。いつか姉妹に確認してみようと思うのだが、どうせ、図書室はあったに違いない。記憶にないのではなく、中学校生活では図書室を利用しなかったのだろう。
そう思えば、中学校生活はやはり特殊だった。人目を気にして生きていた。女子からモテたい一心ではなかっただろうか? サッカーに夢中になっている自分、を見てくれている誰か?のために一生懸命になっていなかったか。ちょいワルがモテる風潮だと勝手に思い込み、万引きするその他大勢たちよりワルいことをしていて、図書室に行く心の余裕と時間はなかったのだ。相考えると、中学校生活は本人たちにしかわからないぐらい、きっと大変なのだ。
中学時代の図書室の記憶はまったくない。
だが、「しらかば書店」のことははっきり覚えている。
あの頃から、いつもそばには、本があった。
好きこそものの上手なれ
ある密着番組で小野伸二(札幌コンサドーレ)が、テレビでサッカーばかり見て過ごしているというのを知って、好きこそものの上手なれという言葉が頭をよぎった。サッカーが好きだからサッカーを見る。自分だったらこうするとかイメージトレーニングもつながるのだそうだ。
なるほどな、と思う。確かに、ラーメン屋になって大成したい者はラーメンの名店をいくつも食べ歩きするのだろうし、料理人もしかりだろう。映画にたずさわる人間も映画が好きで暇さえあれば映画を見ることだろう。芝居をやるものは、人の芝居もたくさん見るだろう。格闘技に明け暮れているものは、人の試合をたくさん見るだろう。
何が言いたいかというと、音楽にたずさわる身であった時分に浴びるように音楽を聴いてこなかったな、という話だ。
なんだそんなことか、と思うだろうが、それは意外と重要なことだと思う。
2016年、わけあって相当量の本を読んでいるが、合計すると読了冊数は120冊以上になりそうだ。何を読んでるかというと1割がノンフィクションで、9割がフィクションだ。とにかく週に2.3冊ペースで活字を貪っている状態だ。よく飽きもせず続く。しかし、結局、好きだから続くのだ。経済的な理由や健康面の配慮などが必要だとしても、年に120ものサッカーの試合を見れないし年に120食もラーメンを食べ歩けないし120本の映画や芝居を見れない。でも、好きな人はやっているだろう。むしろそこまで好きじゃない人にしてみれば年間120冊は読まないだろう。
【005】向う端にすわった男 東直己【だからわたしは本を読む】
【005】向う端にすわった男 東直己
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東直己。ハードボイルド作家。長編になればなるほど味わいが増す、めちゃくちゃ好きな作家の一人だ。代表作「探偵はバーにいる」などは大泉洋主演で映画化もされている。すすきのを舞台にした活劇だ。
なぜ東直己作品をめちゃくちゃ好きなのか考えてみた。特にこの「俺」シリーズに関して。ひとつは、札幌に住んでいたことがあるから親近感がわくのではないか、ということ。確かにそれも一理あろう。
しかし、それだけではない。愛すべきキャラクター描写。主人公がいい。かっこいいのかかっこ悪いのかよくわからないけど、かっこいいのだ。ハードボイルド特有のワイズクラック(皮肉)も「俺」ならではのセリフも多いのだ。かっこつけてないからかっこいい。
男の根っこは、やせ我慢。それこそハードボイルド。
で、この本は短編集という名のもとに「俺」が活躍する話がいくつかに分けられている。正直、本編は星3つと辛口だ。でも、「俺」シリーズの魅力に迫るにふさわしい一文を見つけたので、あえてレビューに記したいと思い至ったのだ。
「自分のケツは自分で拭く、それがたとえ理不尽に汚されたのであっても、自分のケツを拭くのは自分しかいない。
~中略~
しかし自分ひとりでは拭ききれないほど汚れる場合だってあるだろう。それに、たとえ自分のケツは自分で拭くにしても、拭く紙は、たぶん苫小牧かどこかの製紙工場の従業員が作ってくれた紙で、それをトラックの運転手が問屋に運んで、問屋から小売店に運ばれて、それを買ってきたものであり、つまり、人間同士が複雑に錯綜して関わり合う現代社会に生きる人間は、完全に自分だけの力で自分のケツを拭くのは不可能なのだ」
探偵「俺」シリーズの肝はこの一文にあるな、と思いました。他者との関わりなくして物語が成り立たない。多少の下品さも、魅力のひとつだったりする。
好きな作家のひとり、あ行から探せばすぐ出会える、東直己さんの作品でした。
2016.09.30(読書ログから転載)
【004】傍らの人 三羽省吾【だからわたしは本を読む】
【004】傍らの人 三羽省吾
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夢中になれるものはありますか? そう問いかけられているような気がしてしまう青臭くも一生懸命な物語が連なった良質な短編集だ。著者三羽省吾のユーモアは心地よいし、ダジャレやギャグのセンスには妙に安心する。今作も独特のユーモアがちりばめられていて心地よい。六つの短編からなる作品だが、妙なところでリンクしていて、全体を通して楽しめる作品となっている。「大人」や「高校生」が主人公だったりするのだが、どれも違和感なくすっと入ってくる。作者が同じ目線の高さで語り掛けてくれているような気がするのは受け手の問題なのだろうか。
高校生ぐらいの時に、こんな作品と出会えていたら、自分の人生に少なからず影響したのではないだろうか。
帯のキャッチフレーズに目を奪われる。「青春の傍観者だった」「いつでもどこでも脇役だった」「それでも、傍には誰かがいてくれた」「どこにでもいるわたしたちの物語」「夢中になれるってそんなにエラい?」「自分の引き際は自分で決めたい」「会社の愚痴がだけが板についてきた」「勉強したって意味あるの? 無駄じゃない?」「本当は全力で走りたい」「エッチしてるかしてないかなんて、どーでもいいじゃん」「いつまで夢を見るのが許される?」「帰る場所も待っている人もいるのに、今の人生に何かが足りない」「青春なんて大人が決めた賞味期限だ」「頭では諦めているのに、身体が許してくれない」「自分以外の誰かがいつも輝いて見える」「今更。でも今なら、間に合うかもしれな」「どんなに地味でもかっこわるくても、誰もが自分の人生の主人公」
この帯に並ぶ作中から抜粋してきたようなフレーズがすべてではないが、このフレーズに反応するならばぜひ一読をおすすめしたい。青臭さと何にか夢中になるというのは同意語なのかも知れない。
夢中になれるものはありますか?
2016.08.21
カーミングシグナル
直訳すると「落ち着きをもたらすシグナル」。犬が伝えたい事としてカーミングシグナルというものがあることを最近知りました。カーミングシグナルは「不安」や「ストレス」を感じたときに発し、相手に発する信号と自分の状態を伝えたり自身や相手を落ち着かせる動作もあるようです。ボディーランゲージ(犬の言葉)としては数多くありますが、カーミングシグナル「落ち着きをもたらすシグナル」としては27種類発表されています。
最近、愛犬に異変が起きています。
夜寝る時間になると「なわばり意識」なのか、寝床の近くへいくと「唸る」とか「牙をむき出し」にすることが多くなりました。これはいかんと、5歳にして今更ながらケージの中で寝るよう仕向けている最中です。本当の原因がどこにあるのかを知りたいと思って、夜な夜な向き合っており、おかげで睡眠時間が1.5時間なんて日もありました。。。
些細なストレスでも不安でも、犬の発する信号を理解したいと思うのは飼い主なら誰しもだと思います。
そんな中、馳星周さんのソウルメイトという小説をたまたま読んでいて、今以上にさらに「愛犬との生活」に対してもっともっと向き合うべきだし、もっと愛犬のために「しつけ」をするべきだと思ったし、「共生」していくことやパートナーとしての役割と・・・。そんな難しいことではなく、もっともっと愛犬と一緒に過ごす時間を増やしたい、と単純に思いました。
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彼こそが、
読書している時間に、静かに寄り添って待っていてくれる最高のパートナーなんだから。






