路地裏パイレーツ 1
- 2025.02.23
- 雑記

「生まれは仙台泉区方面」と全国区のサントラCDで個人情報を唄っていたように宮城県は仙台市で生まれ育った。暴走族的な不良と、チーマー的なカジュアルなワルがちょうど同居するハザマの世代だった。自分はどちらかといえばといわずともゴリゴリの前者に属していたが、後者への憧れのようなものがあった。単純にスタイリッシュだったしおしゃれに思えたからだ。ゆえに自分は頭がいかれた人しか乗らなそうな真っ黄色のダットサンのトラック、通称ダットラの逆輸入車に乗っていた。いわゆるアメ車、ローライダーブームだ。不良分布図でいうところのシャコタン世代にもかかわらず、チーマー世代のアメ車方向へカジを切っていた。その影響でか、ウェッサイといわれるアイスキューブや2PACなんかをBGMにしていた。そして時を同じくして、道路の白線を引く仕事でほうきで道路を綺麗にしたり旗をふって交通整理するようなバイトをしている時の社員さんがHIPHOP DJだったことと、同じくバイトで勤務していた同い年のコがHIPHOPのダンサーだったのはかなり影響しかもしれない。日本語のヒップホップと出会うのだ。
20歳だった。
それまでの音楽遍歴はゴリゴリのメタルっこだった。ジュンスカやBAKUなんかのホコ天ブームとは無縁の世代だったにも関わらずどういうわけか、バンドやろうぜ!とかいう雑誌が好きだったし、バンド=かっこいいみたいな憧れを持っていたようだ。それで何がそうさえたのかはわからんが13歳でエレキギターを弾き始め、ハードロック、ヘビーメタルにどっぷりつかり、どれだけ速く弾けるかみたいな世界に憧れる中学時代を過ごした。神様はイングウェイマルムスティーンもしくはポールギルバート。ランディローズ。だけど、大雑把というか雑な性格ゆえにツメが甘い、いわゆる職人のようなギター弾きにはなれなかった。まわりを見渡せば自分よりうまいギター弾きなんてたくさんいる。まるでちょこっとサッカーがうまくて呼ばれたトレーニング選抜で、まったく自分が通用しなくてサッカー選手になんの無理無理絶対無理!と早々に見切りをつけた小学生時代を想起せずにいられなかった。ギター弾いて飯食うとか無理。そう思ってボーカルに転向するような根性なしだった。
ヘビメタ。パワーメタル。ロン毛狩り上げて結んで、シャウトして喉枯らして。そんなセブンティーンだった時にラップと出会った。
忘れもしない。スラッシュメタルのANTHRAXとPUBLIC ENEMYがコラボしたBRING THE NOISEだ。衝撃だった。速いだけが取り柄だったはずの(言い過ぎ!)ANTHRAXのリフがめっちゃグルーヴあってノリがよいところに衝撃だった。かっこいい。かっこいいよ。そして、やがてそのかっこよさがラップのおかげかもというところに行きつく。情報源が少なかったしBURNとYOUNG GUITARっていう音楽誌しかバイブルがなかったので、ヒップホップをどっから手つけていいかわからなかった。でもまあPUBLIC ENEMYがかっこいいんだろ?と思って1STアルバムを買う。レーベルメイト繋がりでBEASTIE BOYSの1STを買う。ここでLL COOL JとかRUN DMCとかまでいってればどうなってたんだろうと思うことはある。でもこの2グループの1STを聞きこんで、ラップを知った気になっていた17歳だった。
そして、目指すスタイルはミクスチュアバンドだなって気づき始めたころだった。学業と音楽との両立は難しいことを思い知らされて、どちらもやめてしまうのは…。(なんでよ?)
続く
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